にっし~の日記

発達障害のにっしーが思ったことを綴っていくブログ

発達障害の人は気づく力を伸ばすべき

当事者会に行くと、発達障害の人はあんまり食事に興味がない人が多い印象がありますね
 
あるとき、当事者会で意気投合してLINE交換した人がいたけれども、その人が
「ちょっと会って話をしましょう」
ってLINEで言うから、会いに行っていろいろ話をした
一通り話し合ったときに、時刻がちょうど昼過ぎぐらいだったので
「時刻も昼過ぎでお腹減ってきたから昼ごはんにしよう。どっかこの辺でおいしい店とかない??」
って聞いたら
「いや、知らないです・・・」
と返されてびっくりした
わざわざこっちが出向いて来てるのに、近所の店を知らないとはどういうことだ??あなたの地元でしょ??
 
 
野獣先輩みたいに
「この辺にィ、美味いラーメン屋の屋台来てるらしいっすよ。じゃけん夜行きましょうね」
とパッと言えないと
 
そういう気の利かないところが上(定型社会)と下(当事者会)の差ですね、そういうとこやぞ
 
 
まあ飲食業って入れ替わりが激しいから、前に行っておいしかった店があったので
「この辺にィ、美味い店あるんっすよ。じゃけん行きましょうね~」
と行ったら閉店してなくなっていて
「ファ!?(デデドン)」
というケースも結構あるし(最近はコロナ禍の影響で閉店する店も多いしね・・・)、そういうのはしょうがないけどね・・・
 
 
 
 
ただ、発達障害の人は食事とかに無頓着すぎる人が多いですね
上(定型社会)の人と下(当事者会)の人で何が違うのか?という部分を考えたときに、一番大きく違うのは「気づく力」「共感性」のところだと思う
 
 
定型の人は、人と話すときは
「なんか自分の話に興味を持って聞いてくれているな」
「なんか自分の話を適当に聞き流してるだけだな・・・」
「この話題には妙に食いつきがいいなwこの人はこの話題に対して興味があるんだな」
「あれっ・・・今、顔をしかめたな・・・。なんか気に障ることでも言ってしまったんだろうか・・・」
相手の表情とか反応を見ながら話せる人が多い
 
 
一方で発達障害の人なんかは、相手の表情や反応を見ずに話す人が多い
だから自分の言いたいことだけバーッと話すだけの人が多く、ひどい場合は一方的にバーッと話してしまってマシンガントークとなったり、会話のドッジボールと化す
 
 
発達障害の人であっても上(定型社会)でも通用する人はそこらへんができる人が多い
逆にそこができないと、下(当事者会)では良くても上(定型社会)ではなかなか難しいですね
そう考えると、そこができるかできないかが、発達障害の人であっても上(定型社会)でも通用する人なのかそうでない人なのかの境目と言っても過言ではないのかもしれない
 
 
そういうことに気づけずに、人が聞く気がないときにバーッと話してしまったり、相手を傷つけるようなことを言って怒ってても気づけなかったりして、だんだん周りから嫌われるようになっていってしまう
 
こうなったときに
「自分が悪い」
と気づけないので
「自分が発達障害だからって、定型発達の奴らは自分を差別していじめてるんだ!」
「周りが発達障害への理解と配慮が足りないから、発達障害の自分への当たりが強くなるんだ!社会が発達障害への理解と配慮が足りないのが悪いんだ!」」
というふうに考えて
「相手が悪い」
と他責にして、相手や周りを変えようとしてしまうので、なかなか根本的な社会性における問題が解決しない
 
 
 
まあそれが特性の影響などでできないのが発達障害である、という気はしますが
 
ただ発達障害は治らないので特性がなくなることはないが、そこに気づいてそこは改善していければ、社会性の改善はしていける可能性がある
 
そもそも発達障害の生きづらさとは何か?と考えたときに、特性によって社会生活が困難な部分も大きいと思いますが
 
「お前は空気読まないしウザいだけだからマジでいらねえんだよ。早く消えてくれ。二度と来ないでくれ」
社会性の無さから、一般社会で自分のことを認められずに、否定され続けて居場所がない、コミニティから孤立してしまっている、というところが一番生きづらさを感じる部分だと思います
 
 
「社会は発達障害への理解と配慮をしろ!」
という主張も、要は一般社会から爪弾きにされたことへの
「社会や周りに自分のことをを理解してほしい、認めてほしいんだ」
という、劣等感やコンプレックスの発露、自己顕示欲の暴走がしている結果に見える
 
 
 
こうやって周りから嫌われる人というのは、会社でも人間関係などがうまくいかなかずに続かなかったり、コミュニティでも揉めて追い出されたりしてしまって、金も友人も失うものは何もない、いわゆる無敵の人になりやすい
 
 
 
そうやって人生がうまくいかない劣等感、コンプレックス、孤立感が強くなりすぎると
「社会から村八分みたいになって誰からも嫌われていて孤独だし、会社もクビになりまくるから金もない・・・・・・
普通に何不自由なく楽しく幸せに生きている、定型発達のリア充どもが憎くくてたまらない・・・
このまま野垂れ死にするよりは、いっそ定型発達どもを皆殺しにして道連れにしてやるぜ、ウヒャヒャヒャヒャ」
と犯罪行為に走る可能性もある
 
 
 
実際、発達障害関係のTwitterを見ていると
「定型発達たちをやっつけろ」
といったツイートも多く見られますしね
 
あと、発達障害の人というのは0か100かの白黒思考で考えてしまって
「あいつは悪い奴だから何をやっても構わないんだ。定型発達どもはムカつくから殺したって構わないだろう」
とかの極論、極端な考えをしてしまいがちだし、認知の歪みから誤った考え方をしてしまうことも多く
衝動性も強いから、そう考えていくと、もしかしたら発達障害の人の犯罪率は定型の人より高いかもしれない
鈴木マサカズが描いてるこっちの作品もおすすめ
 
 
発達障害の人の少年犯罪の確率は、定型の少年の犯罪の確率に比べて12倍高いというデータもあるみたいですからね
 
まあこの動画の後半でも言ってるように、単に発達障害の人は犯罪率が高い、というよりは発達障害の人は親から虐待を受けることが多いので、家庭環境の悪さや家族間の不仲から非行に走ってしまうケースが多いみたいですが
 
それにしてもこの動画は、お医者さんとか福祉関係者とかの話よりも、ずっと発達障害について的を得た意見が多いな。アウトローの方のほうが発達障害を理解しやすいのかもしれない。というか社会から除け者にされた社会不適合者の人の気持ちや行動原理というものは、同じく社会のレールから外れているアウトローの人のほうがよくわかるんだろうな。所詮は社会でまっとうに生きているお医者さんや福祉関係者の方には、わかろうとしてもわからないのかもしれない
 
 
 
そうやって考えると、社会や周りに対して発達障害への理解と配慮を求める場合に
発達障害への理解と配慮を求める!」
と単に要望するんじゃなくて
発達障害の人への理解と配慮が足りていないせいで、一部の発達障害の人は賃金も少なく生活も困窮し、さらに社会からも完全に孤立してしまっている。こういう人の中には、社会への逆恨みから犯罪行為に走る人もいるかもしれない。現に2018年に東海道新幹線車内殺傷事件という、発達障害の少年が刃物で乗客3名を死傷させる事件がありました。
このように、社会の発達障害への理解と配慮が足りないせいで、発達障害の人が社会的弱者となってしまい、そういう人の中にはヤケになったり社会への逆恨みから犯罪に走ってしまうかもしれない
そうさせないためにも、社会から発達障害へ理解と配慮をすることによって、発達障害の人を社会的弱者にしないということが大事なんだ!」
と要望したほうが動いてもらいやすいかもしれない
 
だがこれは要は
「我々発達障害は犯罪者予備軍である。犯罪を起こされたくなくば理解と配慮をしろ!」
と自分たちは反社会であると言ってるようなものなので、ヤクザの恫喝とあんまり変わらないような気もしますが
 
 
 
 
 
・・・・・・・おっと、なんか変な極論になってしまったな・・・
 
話を戻すと、上(定型社会)の人と下(当事者会)の人で何が違うのか?という部分を考えたときに、一番大きく違うのは「気づく力」「共感性」のところだと思います
 
では発達障害の人が「気づく力」「共感性」を身につけるにはどうすればいいか??
発達障害の当事者会に多く参加して、いろんなことを話し合うとともに、コミュニケーション力をつける、というのも悪くはないが・・・
「気づく力」そのものを上げていかないといけない
 
 
では「気づく力」そのものを上げるにはどうすればいいか?
感性を磨いて、感性を豊かにしていくこと
 
では感性を豊かにするにはどうすればいいか?
いろんなことに興味や関心を持つこと
 
 
 
発達障害の人というのは視野が狭く、興味や関心を持っている範囲が一般の定型の人に比べると、あまりにも狭すぎる人が多い
たとえば鉄道にはものすごい興味があるけど、他のことには全く関心がないとか
 
まあ鉄道に興味があるというのは良いことだし
他のことを気にならないほどに打ち込めるものがあるというのは素晴らしいことだ
 
 
ただそうやって生きていて、生きづらさを感じるのであれば
「鉄道とか、Twitterで発達関連のツイート見ることだけやっていればいいんだ」
という考え方じゃなくて、いろんなことに関心を持つようにすること
 
「9月に入っても暑い日は続くが、夜は涼しくなって過ごしやすくなったな」
「昨日は雨模様だったけれども、今日は雲ひとつない快晴だ!」
「たまには近所を散歩してみよう。そういや近所にこんなに緑にあふれた公園があったんだな」
「そういえば駅前に新しいレストランが開店したみたいだなあ、一回行ってみようかな?」
「近所の美術館で○○展とかいうイベントをやってるんだな、イベントやってる間に行こうかな」
「この歌手の曲はなかなか良さげだな。CDを借りてみようかな」
「たまにはTSUTAYAで映画や漫画をレンタルして家で見よう。アマゾンプライムとかでなんか映画を見よう」
とか何気ない日常とかでもいろいろ関心を持つことだ
 
そうやっていろんなことに関心を持つと、これまで気づけなかったいろんなことに気づけるようになってくる
 
そのようにしていろんなものに関心を持っていると、いろんな感性が磨かれていって
「たまには近所の川沿いをゆっくり散歩したり、公園でゆっくりしていると気分が落ち着くなあ。現代社会であっても、いや現代社会だからこそ、自然とゆっくり過ごす時間が人間には必要だ」
「いやー、近所のラーメン屋のラーメンがめっちゃうまいな。仕事で疲れたときはここのラーメンを食べると元気が出るな」
「たまには美術館で絵画を眺めるのもいいもんだなあ」
「この歌手の曲を聞くと元気になるなあ。あの音楽を聞くといつもより集中できる気がする。その曲を聞いてから寝るとよく寝れる気がする」
「辛いときは映画を見るに限るなあ・・・」
といった自分の感覚がわかってくる
 
こういう
「自分は何をしているときが楽しいのか?幸せを感じるのか?どういうときにリラックスできるのか?どういうときに集中できて、自分のペースで作業できるのか?」
ということがわかるきっかけになるときもある
 
そうやって
「今日は仕事で疲れたから、おいしい料理でも食べに行こう」
「なんか在宅ワークが続いて気分が乗らないので、たまには家の外に出て散歩しよう」
「音楽を聞いて気分を上げていこう」
自分で自分の体調や気持ちに理解や配慮ができるようになると、生きづらさも緩和されてくる
他人や周りに自分への理解と配慮を求める前に、まず自分で自分の体調や気持ちに理解や配慮していくことが大事だ
 
 
こういうことを言っても、理論や理屈ではなくて感性や感覚なので、わからない人にはいくら言ってもわからない
考えるんじゃなくて感じていって、自分なりに感覚や感性を掴むことが大事
 
 
そうやって感性が豊かになると、いろんなことに気づけるようになる
人の心情の機微とかがわかるようになってきて、字面にとらわれずに場の流れとかがちょっとはわかるようになってくる。俗に言う「空気を読む」というものですね
 
あと
「9月に入っても暑い日が続いてイヤになっちゃうよ~」
「あそこのラーメン屋が結構ウマいんだよ~」
「休みの日は運動も兼ねて散歩するに限るね」
という他人との他愛もない会話でも
 
「そう…(無関心)」
と無反応で終わるんじゃなくて
 
「わかります!休日は外の風を感じながら近所を歩くのがいいですよね~いい気分転換になります」
感覚に共感できるようになってくる
 
 
 
人間というのは共感してくれる人には好感を持つけど、逆に共感してくれない人には反感を抱く
 
たとえば定型の人に発達障害について説明したとして
「けどさあ、いろいろやるべき作業が重なってパニックになるとか、ついうっかりして他の作業を忘れるとか、普通の人間でもよくあることじゃんwそれってただの甘えだよねw発達障害を言い訳にして、自分のミスとかクズさを正当化してるだけだよねw」
とか言われたりすると
「なんで理解しやがらねえんだよボケナス。これだから定型発達のバカアホどもは・・・・・・」
と反感を抱いて心を閉ざしていってしまうけど
 
 
「そんなに不自由だとこれまで社会で生きていく中で大変だったでしょう・・・。辛かったですね・・・」
と共感してくれると
「自分の発達障害の生きづらさをわかってくれるなんて、この人はなんて良い人なんだろう」
と好感を抱いて、心を開いて全幅の信頼を置く
 
 
こうやって人間というのは共感してくれる人には好感を持つけど、逆に共感してくれない人には反感を抱く
だから相手に共感できる共感性がある人というのは、いろんな人から好かれやすくなる
 
特に下(当事者会)だと、社会でうまくいっていない人が集まっていて、そういううまくいかないことへの愚痴を吐き出したいだけの人が多いので
「わかる~」「せやな」「そだねー」「おっ、そうだな(便乗)」「それな」
と共感したり
「なるほど、上司に厳しく怒れれて辛かったんですね~」
とオウム返しをすれば、相手にとっては自分の気持ちに共感してくれたことになって
「この人は自分の気持ちをわかってくれるいい人だ!」
ということになって、良い人と認識されやすくなる
 
 
基本的な他人への姿勢としては正しい
コミュ障のキモヲタとか発達障害の人は、人の話に否定から入る人が多いしね
 
 
 
ただ上(定型社会)だと、ほぼみんな空気を読めるから
「こいつは適当に合わせてるだけだな。それっぽいこと言ってるだけだな」
と、単に合わせてるだけ、それっぽいことを言ってるだけだと見抜かれるケースが多い
感覚とか感性を磨いて、心から共感できるようにならないと通用しない
 
「この人は本当に本心で言ってるっぽいな」
「こいつは良いこと言ってるけど口先だけだなw出任せでそれっぽいことを言ってるだけだな」
と、ある程度は見抜けるかどうかが、上(定型社会)で通用するかどうかの大きな差という気はする
 
「うーん、この人の言ってることは正しいんだけど、なんか違和感があるんだよなー」
「こいつはこれについて聞いたときに、具体的なことについてははぐらかしたり、目が泳いでるのが気になるなー」
というふうに気づけるようになる。そのために気づく力、感じる力を身につけていくことが、発達障害の人の課題と言えるかもしれない
 
 
とはいっても、なろう作品じゃないんだから
「ある日、目が覚めたら急に空気が読めるようになっていた!」
ということはない。地道にやっていくしかない
 
 
 
 
個人的に思うに、発達障害の人が気づく力、感じる力を身につけていく一番良い方法としては、当事者会に行ったときの感想
「いろいろ話を聞けて良かった」
と言うのをやめることですね。それは当事者会に行っただけで満足しちゃってる
 
そうではなくて、たとえば
「『常にポジティブに、という意見もあるが、落ち込んだときはとことんまで落ち込んだほうが良い』
というのはその通りだ。この意見は参考になった、辛いときがあったときは試してみよう」
 
「『定型の社会人サークルは宗教勧誘だらけでめちゃくちゃである』
という意見には賛同できない。たしかに一部ではそういうこともあるかもしれないが、いくら定型の人や定型社会に劣等感やコンプレックスがあるからといって、必要以上に敵視したり悪く言うのはいかがなものだろうか??」
 
「『話をよく聞いて傾聴が大事、というけれども、それだけじゃなくて自分から話してくことも大事だ』
という意見があったが・・・。たしかにみんなが積極的にどんどん意見が出る話では、自分も積極的に食い気味に行かないと何も発言できずに、存在を認めてもらえずに終わるかもしれない。ただ、そういう姿勢はややもすると、自分だけ一方的に話してしまうことにもなりかねない。時と場合によるのではないか?
というよりは、要はあなたが話したいだけ、自己顕示欲を満たしたいだけなのでは?」
 
「あの人のパッと自分の意見を言うのではなしに、相手の話をじっくり聞いた上でアドバイスする姿勢には好感をもった。自分もああゆうふうにできる人になりたい」
 
「この人の態度が悪かったのは良くなかった。一人でも機嫌があからさまに悪い人がいると、影響されて自分まで嫌な気持ちになってしまうな。ああゆうことはしてはいけない」
 
といったように
いろいろ話を聞いた上で、自分はどう思ったのか?どう考えたのか?
ということをしっかり挙げることですね
当事者会に参加したら最低1つを挙げるようにして、慣れてきたら2個3個と挙げられるようにする
 
「今日は天気が晴れていて、9月といっても晴れた日はまだまだ暑い日が続いている・・・・会場に着くまでにノドが乾いてしまったので、ペットボトルを買っていくべきだったな」
新宿駅で乗り換えのときに迷ってしまい、30分以上も駅を彷徨って心身ともに疲れてしまった・・・・・。いったんスマホの地図アプリで確認したほうが良かったな・・・」
「当事者会に参加したあと、帰り道で一人でラーメン屋でラーメンを食べて帰った。当事者会でフルに頭や身体を使ったあとに食べるラーメンが妙にウマいのはなぜだろう」
 
とかの当事者会への行き来の道すがらの事柄も入れても、上(定型社会)で通用するようになるには最低10個は挙げられるようになる必要があると思いますね
そうやって1聞いて10知る、1聞いて10考えられるような人になっていかないといけない
 
発達障害の人は1聞いて1知る、という言われたことしかできない、わからない人が多いですが、それだと上(定型社会)では厳しい
 
 
 
 
上(定型社会)で通用するには、自分で気づいて、自分で修正してく力が必要不可欠になってくる
 
・自分の好きなことは辟易するぐらいしゃべるクセに、自分が興味のない話は全く聞かない
・自分の言いたいことだけ言って、他人の話はほとんど聞かない
・他人の細かな言い間違いには執拗に指摘するクセに、自分が言い間違いをして指摘されたら逆ギレする
・話がやたらと長い
・同じ話を何度も繰り返す
・「垂井で乗り換えがあって」「サンライズ瀬戸」など普通の人が知らないような専門用語を多用して話す。他人にわかりやすく話す気がない
・他人が話を明らかに聞く気がない状況でも、話を一方的に続ける
・他人を平気でディスりまくるくせに、自分がディスられたら怒り出す
 
これに対して注意されたり、悪く言われたりしても
「えっ、自分の何が悪いんですか??事実を言っただけですよね??それの何が悪いんですか??」
と気づけない人は
「普通にしてただけなのに、急に定型発達の奴らが『空気嫁』『ウザイから消えろ』とか言ってきやがった。なんだあいつらは、意味わかんねえよ。当事者会ではそんなことあんまり言われなかったのに」
と、なんで自分が悪く言われるのかがわからずに終わる
 
 
発達障害の人が定型社会で通用するようになるには、そうやって気づく力、気づいて修正する力がないと難しい
「定型社会と当事者会ってどう違うのか??」
という違いに気づける人じゃないとなかなか難しいですね
 
相手や周りを不愉快にさせてしまったときに
「ああゆうことをしたのは良くなかったな・・・次は気をつけよう」
自分で考えて、自分で修正していける人が上(定型社会)でも通用する
 
上(定型社会)に適応しきれずにできずに下(当事者会)に戻ることになっても、そこらへんを気づけてる人は
「下(当事者会)だけじゃなくて、上(定型社会)でも通用ようになるには、こういうことを考えて、そういうことができるようにならないとな」
と下(当事者会)での取り組み方も変わってくる
 
そうやって気づけるかどうかが大きな差になってくる
 
ただこういうのにパッと気づけるようになるには、これまで述べてきたようにいろんなことに興味や関心を持つこと
あとは当事者会に参加したときに、感想なり、思ったことや考えたことを毎回、最低10個は挙げられるようになることじゃないかと思う
 
 
 
いろんなことに興味や関心を持つ、といっても、たかが日々の風景や天候、たかが食事、たかが音楽や映画、たかが当事者会の感想、と
「たかが○○でしょwそんなことやったって気づけたり、空気が読めるようになるわけないでしょw」
という「たかが」という部分を軽視する人はなかなかうまくいかないじゃないかと思いますね
 
そういう細かいところからミスが出たりして、せっかくうまくいきかけてたところでもそこからリズムとかが崩れることが多いですね
 
「微差は大差」
という言葉がありますが、そういう細かいところから見直していくと、こういうちょっとした気づきができるようになってきて、意外とそういうところから大きな成長のきっかけになるときも多いですからね
 
 
「様々な価値観に触れる」というのも良いと思います