この当事者会から約半年ぐらい経ったある日、発達界隈のTwitterにおいて、なんか当事者会では揉め事が多い、というツイートが流れたことがあった
そのときにビックリしたことがあった
その一連のツイートの中で、なんと前述したBさんが
「関西の当事者会はそんなことないですが、東京は事情が違っていて揉め事が多い」
とかリプライしていた
えっ・・・?何を言ってるの・・・?
当事者会においてAさんが別の当事者会で揉め事を起こした件について
「やっぱりAさんはあかんなぁ。そんなんやからあかんねん」
「Aさんはなんなんやろね、ホンマに」
とか、約1時間もの間、自分のような他の新規のお客さんほったらかしにして、ひたすらAさん叩きに夢中になってた喜んでいたクセに何を言ってるの??
「関西の当事者会はそんなことない」
って何の冗談だ?自分のやったことを忘れたのか?
頭沸いてるのかお前?
おっと、言葉が過ぎたか・・・失礼した
大阪や関西の発達界隈の人で
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
という人がいるけど、これは幻想とか都市伝説じゃないかと思う
というか、
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
と言ってる人って、どういう根拠で言ってるんだろう
個人的には
- S氏事件の余波
- レベルが低いだけ
- 自分が考えてないだけ
- 関西人の思い込み
が根拠になっているんだと思う
まず「1、S氏事件の余波」について
たしかに3年前はネット上で激しく醜い争いをずっとやっていたから、「東京の当事者会は揉め事が多い」と言われても仕方がない
これは擁護のしようがない
ただ、3年も前の出来事で、あの無駄な争いから
「争いは意味がない」
と思う人が増えたのか、そういう変な争いはだいぶ減った気もするけどなあ
それにしてもS氏事件は東京の恥さらしだな・・・
「2、レベルが低いだけ」
大阪や関西の当事者会はレベルが低いので
- 自分の好きなことは辟易するぐらいしゃべるクセに、自分が興味のない話は全く聞かない
- 自分の言いたいことだけ言って、他人の話はほとんど聞かない
- 他人の細かな言い間違いには執拗に指摘するクセに、自分が言い間違いをして指摘されたら逆ギレする
- 話がやたらと長い
- 同じ話を何度も繰り返す
- 「垂井で乗り換えがあって」「サンライズ瀬戸」など普通の人が知らないような専門用語を多用して話す。他人にわかりやすく話す気がない
- 他人が話を明らかに聞く気がない状況でも、話を一方的に続ける
- 他人を平気でディスりまくるくせに、自分がディスられたら怒り出す
という人でも、
- 一方的なマシンガントークをして、人の話をほとんど聞かない
- 他人をバカにしまくったり、ディスりまくる
- 他人にあまりにも多くの迷惑をかける
とかのよっぽどひどい場合は困ったちゃん呼ばわりされるけど、そこまで他者に迷惑をかけない場合は「まだマシな人」と呼ばれることが多い
このように大阪や関西の当事者会は困ったちゃんになるまでの判定が甘い傾向がある
ところが東京はレベルが高いので、上記の人でも困ったちゃん扱いになりやすい
東京のほうが判定が厳しいイメージがある
だから大阪、関西の当事者会では「まだマシなほう」と呼ばれていた人が、東京の当事者会に行ったら困ったちゃん呼ばわりされたり
逆に東京の当事者会では困ったちゃん呼ばわりされていた人が、大阪、関西の当事者会に行ったら「まだマシなほう」と呼ばれる可能性がある
東京の当事者会のほうが、すぐに困ったちゃん呼ばわりされやすいから、すぐに問題視されて揉めやすい気もしないでもない
あと、東京の当事者会はレベルが高いので、結構バリ層、バリに近いギリ層の人も顔を出すことがある
日頃は社会人サークルとかの定型の人と遊んでるけど、たまに当事者会にも顔を出すという人も多い
だから発達障害の当事者と言っても
「発達障害には理解と配慮が必要」
という意見と
「発達障害には理解と配慮が必要というのは一理あるが、工夫や努力で社会適応していくべき」
という意見が混在している
まあ東京は当事者会がたくさんあるから、自分にあったところを選べばよいけど
ところが大阪や関西の当事者会はレベルが低いことが多く、ムリ層やギリ層の声が大きいので
「発達障害には理解と配慮が必要」
という意見が主流で
「発達障害には理解と配慮が必要というのは一理あるが、工夫や努力で社会適応していくべき」
という意見は同調圧力で潰されやすい
自分もある関西の当事者会でそうやって潰された
と主張するくせに、気に入らない他者には同じように同調圧力で潰すんだな
自分だけ良ければ、自分さえ救われればそれで良くて、他人のことなんざ本当のところはどうでもいいんだな・・・
人間のクズめ
まあ本当に精神を病んでてしんどい人とか、努力や工夫ではどうにもならない人とかは、
「発達障害には理解と配慮が必要というのは一理あるが、工夫や努力で社会適応していくべき」
とか言われるのはウザいというのはわかる
でもそれならば、発達障害って空気が読めない人が多いので
「この会はとても生きづらさやしんどさを抱えている当事者の会なので、工夫や努力で社会適応していくべき、とか抜かす人は来ないでください。というか消えろ、ファッキュー」
とはっきり明記したらいいんじゃないですか
おっと、大阪や関西の当事者会への愚痴が過ぎたか・・・・
このように大阪や関西の当事者会はレベルが低いことが多く、ムリ層やギリ層の声が大きいので
「発達障害には理解と配慮が必要というのは一理あるが、工夫や努力で社会適応して、定型社会で通用していけるようにしていくべき」
という意見だと、浮いてしまって周りと合わなくなりやすいので、卒業するしかない
【STU48】田中皓子 卒業発表【Charming Trip】 - YouTube
配信中に田中皓子卒業を知り動揺するメンバーたち(T_T)配信を切ってしまったメンバーも【STU2期研究生 川又あん奈・尾崎世里花・田中美帆】みほりんパートは音ズレありm(_ _)m - YouTube
ムリ層、ギリ層、バリ層、の格差というよりは
「発達障害には理解と配慮が必要というのは一理あるが、工夫や努力で社会適応して、定型社会で通用していけるようにしていくべき」
という考えの発達障害の人の居場所がないのが、今の大阪や関西の当事者会の課題という気がする
まあ、当事者会、自助会とは何か?
と考えたときに、定型社会に対して工夫や努力をしてもなかなか適応できず、除け者にされている発達障害の人たちが、生きづらさを一人で抱え込むのではなく、みんなで生きづらさを話し合って分かち合う居場所が当事者会や自助会だ。上(定型社会)に行ける人はさっさと上(定型社会)に行って、当事者会や自助会から去れ、さっさと消えろ、というのは一理ある
それで大阪や関西の当事者会は
「発達障害には理解と配慮が必要」
という考えでまとまっている、ので東京よりまとまっている、ということは言えるかもしれない
「ムリ層向け」「ギリ層向け」「バリ層向け」とかもっといろんな当事者会があればいいのかもしれない
あと前から言ってる通り、大阪の当事者会でももっと「何かをする会」みたいなんが増えるといいのにな
まあ、大阪や関西の有名な当事者会に反発して、有志で新たに当事者会をいろいろ開いていたりして、それから新たなコミュニティみたいなのができているらしいので、これから発展して進化していくかもしれない
東京でも「バリ層向け」を謳って新たに始めたが、いろいろ問題が起きてしまっていても、今は閉店しているが「バリ層向け」というだけで根強い人気があったりする会もあるから
「バリ層向け」の会がないのは東京、大阪共通の当事者会の課題と言えるのかもしれない
「3、自分が考えてないだけ」
先述したように大阪、関西の当事者会は権威主義、というか広野さんや石橋さん至上主義みたいな雰囲気がある
それと
「みんながこう言ってるから」
「テレビとかメディアでこう言ってるから」
「広野さんがこう言ってるから」
「石橋さんがこう言ってるから」
といった感じで、人の意見に流される人が多い印象がある
大阪の当事者会はレベルが低いので
「自分はこう思う。こう考える」
と自分で考えて、自分で動く、ということができない人が多く
「みんながこう言ってるから」
と人の意見に流される人が多いだけじゃないかと思う
「自分はこう思う。こう考える」
と自分で考えて、自分で動く、ということをやって、自分の形やスタイルということができてくると
「みんなはこう言ってるけど、それはどうかと思う。違うんじゃないかと思うな」
「テレビとか『コロナウイルス感染拡大している中、オリンピックなんかやってる場合なのか??一刻も早く政府は中止の判断を下すべきではないのか??』とか散々言ってたクセに
いざ東京オリンピックが開会して競技が始まったら『金メダルおめでとうございます。いや~連日の日本人選手の活躍に興奮させられますね~』とか手のひら返ししてて草不可避w
マスゴミ氏ね」
「石橋さんがTwitterでこう言ってるけど、たしかにそのとおりだ!けど、あの意見には賛同できないなー」
という自分の考え、自分の意見というものが自然とできてくる
発達障害の当事者といっても、特性や性格は人それぞれ違う
「発達障害でも楽しく幸せに生きたい」
というところはいっしょだろうけど
「発達障害でも楽しく幸せに生きるにはどうすればいいのか?」
という部分は人それぞれ違うので、考えがバラバラになるはず
まあケンカや揉め事というのは良くないけど
「発達障害でも楽しく幸せに生きるには、こうするべき」
「いや、違う!発達障害でも楽しく幸せに生きるには、ああするべき」
と考えが違うから、意見が合わないのは自然なこと
そこからどんどん議論が起きるのは良いことだ
大阪や関西の当事者会はまとまっているというより、単にそういう議論ができてないだけじゃないかと思いますね
4、関西人の思い込み
自分も実家は滋賀で関西人だからよく知っているが、関西人というものは東京を悪く言いがちである
「東京は空気が汚い、水が汚い、人間が冷たいところだ」
とか言う人が多い
自分は昔に千葉県市川にも住んでいて、東京は知っていたので
「何言ってるんだこいつら。アホちゃうか。頭沸いてるのか」
としか思わなかったが
このように
「東京は空気が汚い、水が汚い、人間が冷たいところだ。東京は大阪より都会かもしれないが、やはり一番住みやすい場所は関西だ!」
という体にして、コンプレックスから東京を悪く言って、関西が一番だと言いたがる風潮がある
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
というのも、その一環という気はする
以上のように
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
というのは関西人のそう思い込みたいだけの幻想、嘘じゃないかと思う
そもそも東京と大阪というのはだいぶ距離が離れている
全国で活躍するイベンターでもない限り、実際に東京や大阪の当事者会に参加した上で、こういう発言をしている人は少ない、というか居ないんじゃないかと思う
だから東京と大阪の当事者会を行き来して、双方の発達界隈の事情を熟知した上で
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
とちゃんと根拠があって言ってる人はいないと思う
根拠があったとしてもネットのTwitterを見た印象とか、ちょっとした発達界隈の知り合いの
「東京の当事者会は揉め事が多いらしいよ」
といった伝聞が根拠になってるだけじゃないかと思う
自分は大学では歴史学科だったので、情報の根拠、ソースは大事にしています
だから当事者会や発達界隈を批評する際は、全部実際に当事者会に参加して自分の目と耳で感じたことをもとに書いています
当事者会や発達界隈における
「みんなそう言ってる」
もアレだけど
「○○らしい」
という情報は一番信用できない
アニメとか漫画の場合は
「あのアニメは神。最高。めちゃくちゃ面白い」
「このアニメはクソ。最低。何も面白くない」
とか言ってアニヲタに批評しているものを
実際に自分で見てみると
「『このアニメはクソ。最低。何も面白くない』って言うけど、言うほどクソアニメか??なんか結構面白いんだけどw」
ということも多いからな・・・
その人らにとってそうであっても、自分が見てそう思うとは限らない
同じく発達界隈のおいての
「あの当事者会は良いらしい」
「あの人はあんまり良くないらしい」
という情報は一応、参考にはしますけど、論拠にはしない
その「○○らしい」というのは、あくまでその人の感想であって、実際に自分も見たときにそう思うとは限らないし
「どう良いのか?」「どう良くないのか?悪いのか?」
というところは実際に見てみないとわからない
発達障害の人って認知が歪んでいたり、字面をそのまま受け取るから、なんかちょっと良いことを言ってたら「あの人はすごい人だ」と評したりするので、あんまり信用できない事が多いですからね
それに
「あの当事者会にこの前に参加したら良かった」
「あの人はこの前に話したときにあまり態度が良くなかった」
というのであれば、その人の実体験なのでそこそこ信用はできるけど
「あの当事者会は良いらしい」
「あの人はあんまり良くないらしい」
というのは、その人がさらに別の人から聞いたものなので、もはや伝言ゲームと化しているので、信ぴょう性がかなり怪しくなってくる
あとネットの情報というのも、まともな人が書いているんだったらいいけど、変な人が書いているものかもしれないので、信ぴょう性が怪しいですね
このように
「○○らしい」
という情報は一番信用できない
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
という情報も
「○○らしい」
という信用性がない情報がソースになっている気がする
まあ人間というものは、見たいものを見て、信じたいものを信じる生き物だ
仮に世界的権威のA教授が
「発達障害は人類にとって不要なので早く抹殺するべきである。植松聖の言う通りで、障害者は不幸しか作れない」
という学術論文を発表して、これに対抗してB教授が
という学術論文が発表されたら、発達障害の当事者は
「B教授が正しい。A教授はインチキだ」
と言うと思うが
(本当にA教授が世界で正しいとされて支持されてしまっては、世界で発達障害へのジェノサイドが始まってしまう可能性があるので、
破滅願望や自殺願望でもない限り、立場上、黙って殺されるわけにいかないので必死にA教授の意見を否定せざるを得ないというものあるが
この事件もそうだけど
けどこの例はちょっと極端だったな・・・)
これと同じ様に
「東京の当事者会は大阪よりもずっと進んでいて、非常に素晴らしい」
「東京の当事者会は揉め事ばかりで、もはや世紀末や修羅の国と化していて惨憺たる状況である」
という2つの情報があったら、良い・悪い、正しい・間違っている、とかじゃなくて
基本的に信じたいものを信じる、自分にとって都合の良いものを信じるものだ
「私たちは、世界をあるがまま見ているのではなく、私たちがあるがままの世界を見ているのであり、自分自身が条件つけされた状態で世界を見ているのである。・・・相手と意見が合わないと、相手のほうが間違ってると瞬間的に思う。」「自分が変わらなければ 周囲の物事も変わらないこういう考え方を「インサイド・アウト」なんて言う問題はいつも自分の中にある」
と『完訳7つの習慣 人格主義の回復』で書かれていますね
そもそも
「東京の当事者会は大阪よりもずっと進んでいて、非常に素晴らしい」
「東京の当事者会は揉め事ばかりで、もはや世紀末や修羅の国と化していて惨憺たる状況である」
の仮にどちらの状況だったとしても、大阪の当事者会にとってはどうでも良いことのはずなんですよね
だって東京と大阪というのはだいぶ距離が離れているので、東京の当事者会がどうあろうと、大阪の当事者会でやることは変わらないはず
にもかかわらず
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
という意見が出るのはなぜだろうね・・・?
「大阪の当事者会は良い、素晴らしい」
と言えばいいものを
「東京の当事者会は良くないが、大阪の当事者会は良い、素晴らしい」
と他を否定しなければ、自分たちの当事者会を肯定できないということかな
それほどまでに無価値なものなのだろうか
それとも、他のものを否定して安心感を得たいほどに、不安や劣等感が強いのかな
ちなみに東京の当事者会で、大阪の当事者会について話したら
「金輝っていう発達障害バーがあるんですよね」
「石橋って言う人がTwitterでいろいろ主張していますね」
と興味を持って聞いてくれる人が多いですが、そこまで関心や眼中にない人が多いですね
東京から見た大阪なんてそんなもんです、当事者会や発達界隈に限らず何でも
ここまで長々と少ない知見や経験をもとに、自分の主観に基づいた独断と偏見によって語ってきたが
個人的に思うに東京も大阪の当事者会も揉め事の多寡は似たようなもんだと思う
所詮は自分の都合しか考えられない、コミュニケーション力に難がある社会不適合者が集まってるんだから、そりゃあいろいろありますよ
定型でも人がいろいろ集まると好き嫌いとか合う合わないとかありますし、ましては発達障害の人が集まってたら、いろいろありますよね
とはいっても、冒頭で言った通り
「この当事者会はこうである。こういった揉め事があった」
という話はできるだろうけど
「東京の当事者会」
「大阪の当事者会」
と一言で言っても、東京も大阪も当事者会が数多くあり、開催場所、開催者、参加者などなどがそれぞれ違い、会の雰囲気や特徴もそれぞれ違うから
「東京の当事者会はこうである。こういう傾向がある」
「大阪の当事者会はこうである。こういう傾向がある」
と十把ひとからげに語ることはそもそもできない
だから
「東京の当事者会は揉め事が多いが、大阪の当事者会はそんなことはない」
というのも、結局のところはそうだと信じたい人は信じればいいし、違うと思う人は違うと思えばいいんじゃないですかね
おわり
けど、このツイートの「まだ首都圏はソレやってるらしいけど笑」は、どういう根拠があっておっしゃられてるのでしょうか?
そんな中途半端なことを言わずに、首都圏のどの当事者会および自助会でどういうことがあって、それは良くないからもっとこうした方が良いですよ、とはっきりと根拠を示して言ったほうがいいですよ
藪蛇というか、こう言われて首都圏の当事者会に行ってる人からするとあんまり良い気はしないですよね
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